大紀元

(文化)一舞(武)両用の智慧

中国の古典舞踊には、「弓矢步(矢を射るときの姿勢)、大射雁(ダ・シャ・イェン)、大刀花、飛脚」など、武術に似た動作が多く見られます。これらの動作は、名前を聞いただけで武術の意味を感じられます。 実際、中国古典舞踊の技法は、まさに武術から派生したものであり、舞踊武術は同じ起源で、舞踊武術的使用は武術であり、武術の文化的使用は舞踊である。 舞踊は、武術の技法を多く取り入れ、体の動きを伸ばしたりゆっくりしたりして、美感とリズムに富んているパフォーマンスとなり、武術の持つ強硬は全くないが、代わりに美しさという形で人々の称賛を呼び起こせます。 歴史上、多くの賢者が武術舞踊の共通性を発見し、両軍の対戦で使われる武術を披露されるような舞踊に変えていきました。例えば、商湯の「大濩」、周王朝の呉王の「大武」、南北時代の「蘭陵王入陣曲」などが挙げられますが、歴史上最も有名な武術舞踊は唐朝の太宗皇帝の「秦王破陣楽(ジンワウハヂンラク)」です。

「秦王破陣楽」は、もともと唐王朝初期に将士が勝利したときに演奏された軍楽を指し、その後、秦王李世民が反乱軍の劉武周を倒した後、河東の文人や庶民たちが道端で歌い踊っていました。これを見た将士たちは、「受律辞元首,相将讨叛臣。咸歌《破阵乐》,共赏太平人 。」と、破陣楽の曲に合わせて新しい詩を歌いました。劉武周支配下の反乱軍は食糧の蓄えがなく、民衆から略奪することが多かったため、河東の人々は秦王を救世主として仰ぎ、秦王配下の将士たちは民衆と一緒に歌を歌って、一緒に楽しむことができます。「秦王破陣楽」が有名になったのは、民衆を水と火から救った唐の太宗皇帝の仁義と威徳に感銘を受けたことが大きいとされています。

秦王李世民が王位に就いた後、「天下当逆取而顺守」、「为政本乎仁义」ということをよく知っていたが、敗戦したばかりの降伏軍は彼のことを心服しないかもしれないと考えていました。そこで、長年にわたって領土を開拓し、混乱した世を治め秩序を取り戻した功績を、音楽と舞踊の形で国威を天下に宣揚しようと考えたところ、「秦王破陣楽」が間違いなく最善の選択です。

貞観7年(西暦633年)、李世民は自ら舞図を描き、軍陣をそこに組み込み、舞踊の隊列は「左圆右方,先偏后伍,交错屈伸,以像鱼丽、鹅鹳」、「箕张翼舒,交错屈伸,首尾回互,以象战陈之形」とされています。 そして、128人の壮士は鎧を着て戟(げき)を持って、「往来击刺,疾徐应节,抑扬蹈厉,声情慷慨」の形で隊形の変化を練習するように命じられました。 踊りが終わると、その音は山や川を動かし、威厳が四方八方に広がりました。その踊りを見たとき、人々は心志を鼓舞されたり、大いに驚かせたりしていました。音楽と舞踊は、 玄甲軍の変幻がめまぐるしく予測できない軍陣、卓越した武道、威風堂々とした軍隊の姿が再現でき、観客を心から承服させ、反逆の心や勇気がなくなりました。

「秦王破陣楽」は、歌、踊り、音楽が一体となった大規模な舞踊であり、武術的な舞踊の代表格です。 その後、太宗皇帝はこの舞を「七徳舞」と改名しました。 七徳とは、「禁暴、戢兵、保大、保功、安民、和众、丰财」というもので、太宗皇帝は皇帝としてこの七つの徳行と勲功を持たなければならないと考え、後世の人々に唐王朝を建てることの難しさ、それを守るための苦労を忘れないようと戒めました。「秦王破陣楽」の名声は国内だけでなく、東海を越えて扶桑(日本)に伝わり、絲綢之路(しちゅうのみち)を越えて天竺(インド)にまで広がりました。世界の四方の夷族(異民族)は、中原に唐王朝の立派な聖人である高徳の太宗皇帝がいることを知り、すべての国が繁栄する唐王朝を賞賛していました。

古人は、「仁で得て仁を保つ国は百代に亘り、不仁で得て仁を保つ国は十代に亘り、不仁で得て不を保つ国は一代に亘って続かない(江山以仁得之,以仁守之,将有百代的延续;以不仁得之,以仁守之,将有十代的延续;以不仁得之,以不仁守之,一代的延续也不能到头)」と言いました。親切な思いやりと慈悲な心は、人間を感化することができます。逆に、暴力的で強引な手段では人々を一時的に恐れさせるだけです。舞踊の形で善と徳を謳い、剣や兵士を動かさずに遠方の夷族に衝撃を与えることができるのは、まさに唐太宗皇帝の広い胸襟(きょうきん)と美徳を表しています。

歴史書を読むときは、「舞」と「武」 という2つの言葉を共通で使うことがよく見られます。例えば、『史記』に記された「鴻門の会(こうもんのかい)」の記述では、劉邦の軍師である張良が劉邦に「今、項羽が剣を抜いて舞っているが、その意図は常に沛公にある(今者项庄拔剑舞,其意常在沛公也。)」と言っています。その中に、人の心をどきどきさせる「舞」という字は、単純な舞踊の演出ではなく、殺気に満ちた武術の展示場です。もう一つの例は、『晋書・祖逖伝』には、祖逖は夜中に雄鶏の鳴き声を聞くと、起きて剣術の稽古をしたと記載され、『晋書』の原文には「此非恶声也!因起舞。」と書かれています。これが発展して、「鶏鳴を聞いて剣舞する」という人口に膾炙している嘉言になり、ここでいう「舞」とは、明らかに武術の稽古を指し、舞踊の演出の性質すらも存在しません。

この「一舞(武)両用」の中には、実は神の文化の博大な智恵を秘めています。道教の祖である老子は、「天下皆知美之为美,斯恶已。皆知善之为善,斯不善已。」と言いました。中国人の考え方には陰陽の概念があり、宇宙のすべてのものは相対的なものであり、陰と陽は共存し、物事には正と負、難と易、長と短などがあると考えています。これは道教思想における宇宙の運行の重要な法則です。もちろん、武術舞踊)にも同じ原則が当てはまります。実際の戦闘に使われた武術は、暴力を止めさせたり、世の中を安定させたり、善良な人々を守ることができますが、武術という手段自体は、目的を達成するためには流血まで惜しなく残酷で暴力的なものです。そこで、陰と陽を補うという宇宙の法則に則って、舞踊が生まれました。舞踊武術の出身ですが、柔らかな資質を持ち、善良さと美しさで観客を感動させることができます。兵事や武器を動かすことはないが、時に戦争よりも強大な力を発揮することができます。
また、舞踊の技法は武術の動きに由来し、武術の動きは実際の戦闘で磨かれ、すべての動きは変更できないため、何千年を経ても寸分も変わらないことが保証できます。そして、中国の古典舞踊も数千年の基礎を持つ芸術となっています。これを見ると、「一舞(武)両用」の智恵は、本当に非凡で底知れぬ玄妙なものですね。

ーー神韻芸術団ホームページより転載

神韻のウェブサイトから許可を得て転載、著作権は神韻芸術団にあります。)

翻訳編集・啟凡